徳友暦

みなさんには、大切な友人は居ますか?

一応、私にも何人か親しい友人が居ます。男性、女性を問わず大切な存在ですね。
中には、不思議な存在も居るんです。
それが徳友さん。

その前に、徳友さんとは?
はい、文字通り、徳永英明を介し、同じアーティストを好きな友達。で、徳友なんです。

皆さんも、ライブ会場で何度もお顔を拝見する方とでも相当意気投合しない限り、簡単に友人関係になる事は無いと思います。

私の場合は、1998年の1月に徳永さんのオフィシャルサイトが正式に公開され、この徳永さんのオフィシャルサイト内に、ファン同士のネット交流の場を設けてくれた事で、沢山の方々と知り合え、急速な「徳友拡散」のきっかけとなりました。

当時はハンドルネームでの交流が主流で、このサイト名の由来でもあるSATOMINが生まれた年でもありました。そうなんです、SATOMINとは徳友さんとの交流から生まれたハンドルネームなんですね。
いまだに、当時のハンドルネームのまま、徳友さんにSATOMINと呼ばれています。

ここでは、年齢、地域、性別問わず、みんながいろんな形で交流していました。
徳さんの公式サイトで知り合った者同士で結婚した方もいます。
私の場合、それぞれ個性の強い数人の女性と知り合えた素晴らしい年でもありました。

おかげで、BALLADE OF BALLADEでのツアーでは、異常な盛り上がりを体感しました。
翌年はもっと凄い事になり、◯◯(内緒)と言う数十人の徳さん応援団への勧誘も有り、飲み会に参加させていただき、ツアー追体験もしました。本当に凄い体験でした。
お陰で、徳永英明さんを大好きな人々の人数の凄さ、彼を推しあげようとする応援の熱さを知ったのもこの頃です。

1番忘れられないエピソードは、2000年のremindツアーでの佐賀公演の時。佐賀駅での出会い。

九州に越したばかりで、初めての九州行脚での一幕で、出会った1人の女性。
美しくてキラキラしていた。
白いタイトスカートに真っ赤な薔薇をあしらい、銀色の細いパンプスの先を私に向けて歩いて来る人。長いワンレングスの黒髪が怪しく揺れていた。そう、芦屋の美智子さん。
私を斜に見つめる眼差しがちょっと照れていて、より印象的に映った。彼女の徳さんへの思いは筋金入り。それこそが今だに続く彼女との由縁かと。私の思う徳さんを共有できる唯一の徳友さんとの出会いでもあった。
あれから20年の歳月が。早いもんだな〜

しかし彼女とは、順風満帆に今日まで来た訳では無く、途中何年かの休眠期間もあった。
お互い頑固なんだ。それを覆えしてくれたのも、又、徳さんを取り巻くちょっとした思い出が徳友復活の声を運んでくれたのだ。
瞬間の雪溶けは突然だった。詳しくは書けないがそんな事もあったな。随分な大人体験。笑。

以来、毎年の徳ちゃん行脚には、彼女との共有する時間の流れと共にいる私があった。

2000年、出会った個性の強い徳友さん達。
彼女らの素晴らしい徳さん応援歌には脱帽。そして、共感。あの頃の私は彼女らに翻弄され、操られ、さながら子羊状態で可愛がってもらった。

ここでの可愛がりとは、本当の「ヨシヨシ」です。頭を撫でてもらう感じの優しさの事。まるで親戚でもあるかのごとく、自宅でのもてなしやお泊まりまで、居心地の良い大切な時間たち。ツアー会場での年に数回の再会では、高額なキーホルダーやそれぞれの地域の手土産のプレゼントまで頂き、感謝しか無い。

これも、徳永英明応援歌があった事での私の徳友暦の大きな骨子かと。私の徳友暦には数え切れない沢山の方々からの愛があった。それは、これからもずっと続くであろう、私自身の糧にもなろう。徳さんあっての今なんだと。

彼女ら、それぞれのスタイルで、自分なりのやり方でそれを見せてくれた。たまには、脱線して自己の方針を強要する人とも遭遇する事があったが、時間と共に、それも私の中で自然淘汰されて来た。

今更ながら、SATOMIN’S ROOMも、1つの徳永さん応援歌となる私のスタイルなのだ。今後も私からみなさんへ送る愛のエールを覗いて、優しく微笑んでいて欲しい。そして、大人になった私の頭を撫でて欲しい。